酒田の豪商

「酒田の豪商」について

最上川の河口に位置する酒田市は、その地の利によって昔から商業の町として栄えてきました。
17世紀に河村瑞賢により西回り航路が整備されると流通がより便利になり、その繁栄がさらに加速されていきました。

北前船は酒田から米や紅花を乗せて上方に向かい、帰りには塩や木綿、そしてお雛様といった上方の文化を乗せて戻ってきました。

多くの豪商が活躍した酒田は日本海に面した山形県の庄内地方の中で経済の中心でもあり、文化の中心でもあったわけです。

酒田の豪商として最も有名な本間家については「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に」とも詠われていました。

本間家は第二次世界大戦後の農地改革まで日本最大の地主でした。
最高時には3000町歩の土地を所有していたと言われています。
これは 9,000,000坪、東京ドームの面積の635倍となります。

本間家の他にも鐙屋、伊藤家、加賀屋(二木家)、その他多くの豪商が活躍し「三十六人衆」と呼ばれる自治権を持つ組合が湊町酒田を動かしていました。

今でも、酒田にはこれら豪商の家や別荘がいくつか残されています。


本間美術館

本間美術館の写真

本間美術館は元々、庄内藩主である酒井家が領内を巡るための宿泊施設として建設された本間家の別荘でした。
建物は「清遠閣」、庭園は「鶴舞園」と呼ばれ、酒田を訪れる観光客に人気のスポットとなっています。
清遠閣と鶴舞園は敷地の奥の方に位置しています。
手前にある美術館では絵画・書・陶磁器・雛人形など、その時々により見事な展示品を楽しむことができます。

本間家旧本邸

本間家旧本邸の写真

本間家の自宅として使われていた建物です。
武家屋敷と商家造りから成り立ち、武家屋敷の方は幕府の巡見使が庄内を訪れた際の本陣として使用されました。

旧鐙屋

旧鐙屋の写真

廻船問屋として繁栄した鐙屋は井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場しています。
旧鐙屋は廻船問屋資料館とでも言えるもので、当時の生活や仕事ぶりが人形によって再現されています。
酒田市役所の向かいに位置しています。

清亀園

明治時代に伊藤家7代目である伊藤四郎右衛門の別邸として造営されたものです。
伊藤家は油屋から始まりやがて本間家とも肩を並べるほどの大地主となりました。
清亀園は約900坪の敷地を持ち、そこに広がる庭も建物も素晴らしく、住宅街の中の憩いの場となっています。
現在、清亀園は酒田市所有の施設となっており、教育委員会の許可を得て建物内で催し物等を行うことができます。

旧青山本邸

酒田市ではありませんが、遊佐町の旧青山本邸は別名「ニシン御殿」とも呼ばれ、漁業で財を成した青山留吉が明治半ばに建てたものです。
当時の東北地方ではめったに見られなかった瓦葺の屋根というのが豊かさを示しています。